Se connecter鷹宮グループ本社の会議室で、玲央は翌日の予定表を確認していた。
午前十時。
鷹宮ライフデザイン生活支援相談連携案、本審査。
出席者一覧には、朝比奈琴葉の名前があった。
その下に、鷹宮本体側オブザーバー一名。
玲央の名前ではない。
当然だ。
彼がそこに座れば、それだけで意味が変わる。
案件の価値ではなく、玲央の意向を見に来る者が出る。
琴葉の説明ではなく、玲央の反応を気にする者が出る。そんな場所に、彼女を立たせるわけにはいかなかった。
「明日の審査ですが」
久世がタブレットを見ながら言った。
「本体側のオブザーバーは事業管理部の奥村課長です。玲央様の直轄ではありません」
「わかっています」
「念のため申し上げますが、玲央様が出席される必要はありません」
「出席しません」
玲央は即答した。
久世は少しだけ目を上
一件だけの成果は、思っていたより早く社内に広がった。 もちろん、華々しい成果としてではない。 試験導入初期の共有事項として。 生活支援連携案の初期反応として。 担当部門の中で、いくつかの資料に小さく載っただけだ。 それでも、私にとっては十分だった。 現場で一度使われた。 迷いが一つ減った。 電話が一つ減った。 その意味を、ちゃんと説明できた。 そう思っていた。 午後、事業推進室の共有スペースで、次回修正案について話していた時だった。「電話が一本減った、か」 少し離れた席から声が聞こえた。 管理部門の人だった。 名前は知っている。 直接話したことは、ほとんどない。「それを成果として出すには、少し弱いんじゃないですか」 声は大きすぎない。 けれど、聞こえる程度にははっきりしていた。 周囲の空気が、少し止まる。 私は手元の資料を押さえた。 胸の奥が、一瞬だけ縮む。 弱い。 その言葉は、分かる。 数字として見れば、たった一件だ。 新規事業の成果として掲げるには、小さすぎる。 そう言われても仕方がない。 けれど。「朝比奈さん」 事業推進室の担当者が、少し心配そうに私を見た。 私は小さく首を振った。 大丈夫。 たぶん、大丈夫。「確かに、大きな成果ではありません」 私は資料を持ち、声のした方へ向いた。「電話が一本減っただけで、事業化の判断ができるとは思っていません」 相手は少し意外そうにこちらを見る。 反論されると思っていたのかもしれない。 あるいは、黙ると思っていたのかもしれない。「ただ、今回の試験導入で見たいのは、最初から大きな数字だけでは
翌朝、私は社内報告用の資料を開いた。 結和ケア試験導入・初期反応報告。 そう打ったタイトルの下に、昨日の宮坂さんから聞いた内容を整理していく。 配食スタッフが気づきを残した。 訪問支援スタッフが事前に確認できた。 家族への連絡が一度で済んだ。 電話が一つ減った。 そこまで打って、指が止まる。 一つ。 数字だけ見れば、とても小さい。 けれど、その一つが現場では大事なのだと、宮坂さんは説明してくれた。 誰に伝えるべきか迷う時間が減った。 記録しても無駄ではないと思えた。 次も残してみようと思える入口になった。 私はその言葉を、できるだけ削らずに残すことにした。 報告書は短くするべきだ。 でも、短くしすぎて意味まで消してはいけない。 午前十時。 事業推進室の小さな会議室で、試験導入の初期報告が始まった。 出席者は、担当部門の上司と事業推進室の数名。 玲央さんはいない。 それでよかった。 ここで評価されるなら、玲央さんの前ではなく、この仕事を見ている人たちの前で評価されたい。「では、朝比奈さん。お願いします」「はい」 私は資料を開いた。「試験導入開始から一週間の初期反応について報告します。まず、現場向け確認カードは全員に定着している段階ではありません。連絡先の明記、職種別の記録例、家族連絡の確認欄について、改善要望が出ています」 最初に課題を出す。 良く見せるために、都合のいいところだけ並べたくなかった。「一方で、実際に連携が一件動いたケースがありました」 会議室の空気が少し変わる。 私は続けた。「配食スタッフが、利用者さんの受け答えが普段より曖昧だったことを記録しました。緊急対応ではありませんでしたが、訪問支援スタッフが訪問前にその記録を確認し、地域連携室へ状況
試験導入が始まって、一週間が過ぎた。 現場からの声は、まだ途切れない。 三行目の連絡先がまだ分かりにくい。 配食と訪問支援で、記録例を分けてほしい。 家族へ連絡済みかどうかを一目で見たい。 厳しい指摘もある。 けれど、最初の頃とは少し違っていた。 ただの拒否ではなく、使うための意見になっている。 そう思いたい。 そう思いながらも、私は毎日少しずつ不安だった。 本当に役に立っているのだろうか。 現場の手間を増やしているだけではないのだろうか。 そんなことを考えていた午後、宮坂さんから連絡が入った。『少しお時間ありますか。共有したいケースがあります』 私はすぐにオンライン打ち合わせを設定した。 画面に映った宮坂さんは、いつも通り落ち着いていた。 けれど、表情が少しだけ柔らかい。「朝比奈さん、昨日、一件だけですが、実際に助かったケースがありました」「助かった、ですか」「はい。配食のスタッフが、ある利用者さんのところで“いつもより受け答えが曖昧だった”と記録してくれたんです。食事は受け取られたので、緊急対応というほどではありませんでした。ただ、三行カードの通りに、対応したことを一つだけ残してくれました」 私は息を詰めた。 画面の向こうで、宮坂さんは資料を確認しながら続ける。「以前なら、配食側は気になっても、どこまで連絡するべきか迷ったと思います。急ぎではない。でも、何となくいつもと違う。そういう時は、結局その人の判断に任されがちでした」「はい」「今回は、その記録を訪問支援のスタッフが先に見られました。訪問前に地域連携室へ一度確認して、前回の様子と照らし合わせてから入れたんです」「それで、何か問題が?」「大きな問題ではありませんでした。少し体調が悪かったようですが、ご家族への連絡も、訪問支援側から一度に整理してできました」
試験導入が始まって、三日目。 私は朝から、結和ケアとの共有フォルダを何度も開いていた。 現場向け確認カード。 初回説明用資料。 家族向け説明文。 どれもまだ試験版だ。 完成ではない。 むしろ、ここから崩されるために出したものだと思っている。 そう思っていた。 思っていたけれど。『三行目の「地域連携室へつなぐ」が、具体的に誰へ連絡すればいいのか分かりにくいです』『配食スタッフの場合、対応したことを一つだけ残すと言われても、どこまでが対応に入るのか迷います』『家族へ連絡済みかどうかを確認できる欄がほしいです』『カードは見やすいですが、訪問支援と配食で同じ文言だと少し合わない気がします』 届いた意見を読んで、私は机に額をつけたくなった。 文句が出るとは聞いていた。 でも、実際に並ぶとなかなかの迫力がある。「琴葉、生きてる?」 朱音が隣から声をかけてきた。「文句に埋まってる」「仕事してるね」「もう少し優しい言い方をして」「改善材料に包まれてる」「包まれ方が重い」 私は顔を上げ、もう一度意見の一覧を見た。 きつい。 けれど、読んでいるうちに少しずつ分かってくる。 これは、ただ否定されているわけではない。 見たから出た文句だ。 使おうとしたから、引っかかった場所だ。 読まれていなければ、何も返ってこない。◇◇◇◇ 昼前、宮坂さんとの短いオンライン打ち合わせが入った。 画面越しの宮坂さんは、いつもの落ち着いた表情だった。「朝比奈さん、意見がいくつか出ていますね」「はい。かなり出ています」「いいことです」「いいこと、ですか」「はい」 宮坂さんは、少しだけ笑った。
結和ケアの現場向け説明会は、夕方に行われた。 訪問支援のスタッフが戻ってくる時間に合わせたため、会議室には少し疲れた空気が漂っている。 それでも、席はほとんど埋まっていた。 高梨さんが前方に座り、宮坂さんは少し後ろで全体を見ている。 私は配布用の資料を手に、深く息を吸った。 今日持ってきたのは、三種類。 初回説明用の一枚資料。 家族向けの説明文案。 そして、三行の確認カード。 前なら全部を一つにまとめていたと思う。 でも今は違う。 読む人が違えば、届く形も違う。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。鷹宮グループの朝比奈です」 私が頭を下げると、何人かが軽く会釈を返してくれた。 好意的な人もいる。 警戒している人もいる。 当然だと思った。 新しい仕組みは、現場にとっていつも歓迎されるものではない。「最初に、皆さんからいただいた言葉を一つ、そのまま使わせてください」 私は資料の一番上を示した。「利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です」 会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。 誰かが小さく頷いた。 高梨さんも、こちらを見ている。「この仕組みは記録を増やすためのものではありません。皆さんが気づいたことを、次に必要な人へつなぎやすくするためのものです。だから、試験導入では三つのことを先に約束したいと思っています」 私は指で一つずつ示した。「既存記録と同じ内容を、別の場所へ二重に書いていただく形にはしません。転記を前提にしません。迷った時の確認先を一本化します」 前列の男性スタッフが手を上げた。「でも結局、何かは書くんですよね」「はい」 私は頷いた。「ゼロにはできません。ただ、毎回全部を書く形にはしません。いつもと違うことがあった時だけ、対応したことを一つ残してくだ
会社へ戻ると、私はすぐに新しいファイルを開いた。 現場向け確認カード。 タイトルを打ち込んでから、指が止まる。 三行。 高梨さんは、そう言った。 現場で本当に見るのは、たぶん三行です、と。 資料を短くするだけなら、まだできる。 けれど三行にするとなると、話が違う。 説明を削るどころではない。 何を残すかを決めなければならない。 私は画面を見つめたまま、結和ケアで聞いた言葉を思い出した。 利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です。 その一文を、カードの上に置くか迷った。 大事な言葉だ。 でも、それだけで一行を使ってしまう。 現場が本当に見る三行に、理念を入れていいのか。 それとも、別の場所に置くべきなのか。 悩んだ末、私はカードの上部に小さく見出しとして入れることにした。『利用者さんを見る時間を守るために』 そして、三行を打つ。 一、いつもと違うことに気づいたら記録する。 二、対応したことを一つだけ残す。 三、迷ったら宮坂さんへつなぐ。 短い。 短すぎる気がする。 でも、訪問前後の慌ただしい時間に見るなら、これくらいでなければ目に入らないのかもしれない。「琴葉、何してるの?」 隣から朱音が覗き込んだ。「三行にしてる」「何を?」「仕事を」「俳句?」「確認カード」 朱音は画面を見て、眉を上げた。「短っ」「三行だから」「本当に三行だ」「三行って言われたから」「素直」「素直というより、これ以上あると見てもらえないんだって」 朱音は少し黙ってから、画面に目を戻した。「でも、分かりやすいよ。何をすればいいかは分かる」







